郷愁の街「遊泉寺銅山ものがたりパーク」でノスタルジック体験
かつて日本最先端の技術で栄えた鉱山街がありました。その名も、遊泉寺銅山。
江戸時代に採掘が始まったこの場所は、明治時代に入り、本格的な操業がスタートしました。
その後、大正時代には、建機で有名な世界的メーカー「コマツ」の基となる小松製作所の営業が開始されました。
この小松製作所を立ち上げた方が、あの「竹内明太郎」氏です。
「遊泉寺ものがたりパーク」では竹内氏の功績や、かつて繁栄を誇った銅山街の郷愁を感じることができます。
世界のコマツの創設者「竹内明太郎」氏とは?
竹内明太郎氏は、1860年に高知県宿毛市で生を受けました。元内閣総理大臣「吉田茂」氏の実兄です。
父親が創業した「竹内鉱業」を引き継ぎ、最新の技術を積極的に導入し、事業を全国に拡大させます。
遊泉寺銅山の他にも、茨城無煙炭鉱、佐賀県唐津の芳谷炭鉱、大夕張炭鉱などを手掛ける全国的な鉱業会社でした。
その竹内明太郎氏が、遊泉寺銅山の開発に着手したのは明治時代の半ば、1902年のことでした。
そして1917年には、小松鉄工所(後の小松製作所/コマツ)を設立し、近代の機械金属工業の礎を築きました。
そして現在のコマツの姿は、小松駅に隣接する「こまつの杜」でも知ることができます。
ダットサンと竹内氏
竹内明太郎氏が携わった事業は数々あり、日産自動車やいすゞ自動車の前身となった自動車製造会社「快進社」も、その一つです。
竹内氏の他、第8代台湾総督の田英夫参議院議員、安中電機製作所社長となった青山祿郎氏の出資により、橋本増治郎氏が設立し、あの国産第1号車と呼ばれる車、脱兎号(DAT CAR)を発売しました。
この車名は、出資者3名のイニシャルの頭文字から名付けられています。
ものづくりのまち 小松市の原点といわれる「遊泉寺銅山」
約100年前、この場所では1,600人が働き、その家族を含めると5,000人以上の人々が住んでいた「鉱山街」です。
この街には、学校や病院、郵便局や共同浴場など、様々な生活に必要な施設が並んでいました。
当時最先端の鉱山だった遊泉寺銅山には、小松駅から鉄道が引かれ、全国から多くの人々が行き交っていました。
あれから100年...思いを馳せながら巡る「遊泉寺銅山ものがたりパーク」
大正9年(1920年)に閉山となった遊泉寺銅山。現在地元の有志達によって、その面影が美しく整備されています。
資料館や記念碑が建ち、かつての銅山一帯を巡る一周約1.5kmの遊歩道も設けられました。
山道を数百m歩くと、精錬所跡にある高さ20mの大煙突跡が見えてきます。
また遊歩道に沿って竪坑跡や廃鉱を捨てた砂山、機械の据え付け台などの遺構も見ることができます。
かつての様子を感じられる「竪坑跡」
ものがたりパークの奥にある「竪坑跡」は、かつて約250mの深さまで掘り下げられた場所の最上部です。
現在は安全面を考慮し、コンクリートで囲いや蓋を設けてありますが、その蓋の一箇所に小窓が付けられ、中を覗くことができます。
緑豊かな自然とノスタルジックを感じられる場所です
このパーク内は、歩道の周辺を木々に囲まれており、気持ち良い風が吹く中でのウォーキングもおススメです。
小脇を流れる水路、草花の中に垣間見れる銅山街の痕跡、春には梅が咲く広場などなど。
郷愁漂う「遊泉寺銅山ものがたりパーク」では、ノスタルジックな体験ができます。
里山みらい館
パーク入口には、遊泉寺銅山の資料館でもある「里山みらい館」があり、当時を紹介する「写真や解説パネル」も設置されています。
【施設概要】
所在地:小松市鵜川町丙152番地 TEL:0761-58-2810
開館日:火曜・木曜・土曜・日曜・祝日
時間:9:00~15:00
基本情報
周辺地図
- 里山みらい館
- ハニベ巌窟院
- 仏御前屋敷跡・ 仏御前墓・仏御前尊像
- 小松市立加賀国府ものがたり館
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