「珠玉と歩む物語」小松~時の流れの中で磨き上げた石の文化~
弥生時代の碧玉(へきぎょく)の玉づくり、古墳時代の精巧な腕輪や管玉・勾玉、当時の国内最先端技術で構築された石室、高いデザイン性を有した小松城の石垣、明治期に欧米でジャパンクタニと称賛された九谷焼など、2,300年にわたり脈々と受け継がれた小松のモノづくり。そして、小松のまちに残る石切り場や鉱山、石蔵や史跡など、小松の石とともに歩んできた歴史を紹介します。
日本遺産認定「珠玉と歩む物語」
小松の「石の文化」のはじまり
今から約2,000万年前、日本海側での活発な火山活動は、銅鉱床や瑪瑙(めのう)、オパール、水晶、碧玉(へきぎょく)の宝石群、良質の凝灰岩石材、九谷焼原石の陶石など大地の宝を生み出します。
小松の人々はこの大地の宝を活用し、2300年にわたり、時代のニーズに応じた人・モノ・技術が交流する豊かな石の文化を築き上げてきました。
モノづくりの原動力となった碧玉の原産地
小松市内の那谷(なた)・菩提(ぼだい)・滝ヶ原地区は、弥生時代から古墳時代に活用された最大の碧玉原産地です。良質の地下資源を、当時の最先端の加工技術によって加工し、宝飾品として全国の豪族・有力者たちに流通させていました。小松の先人たちによる「技」は、原始小松のモノづくりブランド誕生を意味し、小松市のモノづくりの原動力となっていきました。
驚異的な加工技術!小松ブランドの発祥
今から2300年前、小松の弥生人は碧玉(へきぎょく)を直径2mmの円柱に磨き上げ、太さ0.7mmの石針で1mmの孔を開けるという現代でも復刻が困難な驚異的な加工技術を用いて管玉を作り上げました。
権力の象徴であった「碧玉」アクセサリーは小松ブランドの原点であり、日本海交易を経て九州へと届けられ、弥生の王たちを魅了します。古墳時代になると、精巧な彫刻を施した緑色凝灰岩製の腕輪を作り出し、ヤマト王権の諸王を魅了するなど、日本を席巻していきます。
小松にある弥生から古墳時代の遺跡や出土品を見に行こう!
- 八日市地方遺跡
- 碧玉製管玉を製作した玉つくり遺跡であり、北陸最大の弥生中期の拠点集落遺跡。東西のヒト・モノ・ワザが行き交う交流の結節点と位置付けられ、碧玉・翡翠など日本海を行き交う宝石の流通拠点でもありました。遺跡の一部は「サイエンスヒルズこまつ」にある「ひととものづくり科学館」の地下に保存されています。
- サイエンスヒルズこまつ
- 八日市地方遺跡出土品
- 弥生時代の王たちを魅了した碧玉製管玉、管玉加工途中の工程品、管玉製作工具などの玉つくり関係遺物一式が出土しました。これら玉つくり関係の出土品を含め、東西交流の結節点と言える八日市地方遺跡出土品が、小松市埋蔵文化財センターにて収蔵展示されています。
- 小松市埋蔵文化財センター
国内最先端の「石室」構築技術
古墳時代後期に建築部材として活用が始まった凝灰岩(ぎょうかいがん)石材。
河田山(こうだやま)古墳群では飛鳥時代に位置づけられる方墳2基が確認されており、地元の鵜川石を使用した凝灰岩切石積み横穴式石室があります。
天井部は欠損していますが、国内に例を見ない大陸からの技術「アーチ構造」で作られた形跡が残り、石積みのズレを防止する「鍵手積み」技法など国内最先端の石室構築技術をみることができます。
加賀国府ものがたり館(旧河田山古墳群史跡資料館)内に1基が移築復元展示、もう1基は史跡公園内に移設され墳丘復元が行われています。
河田山古墳群からの出土品
古墳時代前期・中期と飛鳥時代に位置づけられる河田山古墳の出土資料。管玉や勾玉などの装身具をはじめ、石室古墳より出土した遺物も、加賀国府ものがたり館(旧河田山古墳群史跡資料館)にて収蔵展示されています。
石山に開かれた白山信仰の拠点「那谷寺」
1300年の歴史を持つ白山信仰の古刹、那谷寺。碧玉の地層が見られる岩山に開かれた泰澄法師が「岩屋寺」と名付けたお寺です。一向一揆による戦火で荒廃しましたが、江戸初期、加賀前田家三代利常公が再建。屋根には地元凝灰岩を用いた石棟が用いられ、同様の石棟構造が粟津温泉の老舗旅館「法師」にも取り入られています。
白山信仰の中宮(ちゅうぐう)八院や那谷寺の奥の院である那殿観音(なでんかんのん)も凝灰岩の山々に建造されており、白き岩山が信仰の対象となっていたことをうかがわせます。
庭石や飛び石にに注目!那谷寺庫裏庭園
那谷寺再建時に造営された江戸初期の様式を持つ庭園遺構。泉水を含む主庭と書院北側の平庭および茶室「如是庵」の茶庭で構成されています。園内に配される庭石や飛び石には碧玉やメノウ、水晶、オパールなどの地元産の宝石類が使用されています。
まだまだある!小松にある石の建造物と史跡を見に行こう!
- 十九堂山遺跡石塔群
- 古代白鳳期から平安期の古代寺院跡に重複する中世墓群。現在は墓地のため、石塔群の原位置が移動していますが、五輪塔や宝炬印塔など、中世に位置づけられる石塔類を複数見ることができます。地元石材を使用しています。
- 仏御前墓
- 「平家物語」に登場する白拍子「仏御前」の墓とされる中世の石造物。小松市原町内に所在の仏御前の屋敷跡地内に建てられており、地元の原石が使われている最古の事例です。
- 滝ヶ原石造多層塔
- 14世紀に建立されたと推察される高さ225cmを測る大型の石塔。五層の屋蓋をもち、塔頂部は欠損しています。地元滝ヶ原石を用いた最古の石塔例であり、滝ケ原下村八幡神社境内に所在しています。
- 滝ヶ原下村八幡神社遺跡
- 神社左側に2基の石窟(やぐら)が開口露出しています。1基には石塔が並び、背面に梵字が刻まれており、石材は滝ケ原石で、13世紀から14世紀と推察されます。
- 観音下白山神社境内遺跡
- 神社左側に石窟(やぐら)が1基開口露出し、内部には石塔が散在しています。石材は観音下石で、中世のものと思われます。
デザイン性豊かな「石垣構築」
戦国時代から泰平の江戸時代に入ると、城壁は戦から城を守るためのものから、見た目の美しさなどを重視するなど、別の意味を持つようになります。
加賀前田家三代利常公が隠居城として整備した小松城の石垣は、小松産の石材を当時の最新工法「切り込み接(は)ぎ」で積み上げた精緻(せいち)なもので、色調の異なる石材をランダムに配置する石垣の美を意識したものでした。
石の文化を広く浸透させた「石切り場」
近世のまちづくりが進む中、建築部材としての需要が高まり、本格的な石切り場の開発が始まります。
市内には25ヶ所以上の石切り場ができ、石の文化の浸透を後押ししていきました。
- 鵜川石切り場跡
- 飛鳥時代の河田山古墳の石室から近世の小松城の石垣、そして近代建築物にまで長い時代にわたって多用されてきた角礫凝灰岩石材の産地。大規模な洞窟丁場1ヶ所は、ハニベ岩窟院として観光地となっています。
- 遊泉寺石切り場跡
- 江戸期から採掘がなされた角礫凝灰岩の採掘場。第二次大戦末期には中島飛行機(現・富士重工業)が洞窟を利用して、部品を製造。総延長10㎞、8000㎡に及ぶ広大な迷路空間となっています。随所に地下水が溜まり、幻想的な光景を創り出しています。
石切り場で使用された石工道具
滝ケ原地区の石切り場で使用された石工道具。ゲンノー、各種ツルハシ、各種チョンノと、タガネ、ノミの細工道具などがあり、里山自然学校こまつ滝ケ原にて展示されています。石材の加工技術は、今も市内26軒もの石材業者や名工に受け継がれています。
ジャパンクタニを生んだ陶石「九谷陶石」
明治期に欧米でジャパンクタニと称賛された色絵陶磁器の最高峰「九谷焼」。江戸後期に小松市花坂地区で発見された陶石が用いられています。
陶石粉砕から九谷焼陶土ができるまでの昔ながらの各工程が今も残り、この陶石の存在が多くの人々を魅了する九谷焼作品を生み出す源泉となっています。
- 九谷焼製土場(九谷セラミック・ラボラトリーほか)
- 陶石から九谷焼陶土(坏土)を製作するまでの工程を行う工場。陶石を破砕し、杵で衝いて不純物を取り除いた後、ふるいにかけ、沈殿、脱水を経て、九谷焼陶土を製造。九谷焼製土所は市内の2ヶ所のみで、昔ながらの工程を見学することができます。
- 連房式登窯(小松市立登窯展示館)
- 花坂陶石山に近い近世から続く九谷焼の中心地である八幡に現存する唯一の九谷焼登窯。素地焼成する本焼段階の窯で、操業状態のままで保存されており、登窯構造や型おこし成形、素地焼成等の工程を展示しています。付近には九谷工房が集中。
- 小松市立登窯展示館
- 錦窯(小松市立錦窯展示館)
- 九谷焼の上絵付け窯で、低火度焼成窯のため、小松町家の工房内に備え付けられています。人間国宝を輩出した徳田八十吉の工房であり、現在は錦窯展示館として、初代から三代の八十吉作品が展示されています。
- 小松市立錦窯展示館
- 錦窯(松雲堂)
- 明治から大正時代にかけて「ジャパンクタニ」の立役者となった九谷焼の窯元の一つ「松雲堂」。現在は、観音下石と滝ヶ原石を組み合わせた石蔵と九谷焼が保存され休日に公開されています。また、小松の芸術文化発信の町家施設を活かし、次世代の工芸・芸術を育てるための貸館として活用されています。
加賀の経済を支えた鉱山
江戸後期から金平や尾小屋、遊泉寺では金・銅の採掘が始まります。
特に明治期以降は、「北陸の鉱山王」と呼ばれた横山家が経営する尾小屋鉱山、のちの小松の鉄工業発展の礎となった遊泉寺銅山が銅の産出量を拡大させ、大正期には全国有数の産出量を誇りました。
その財は、小松をはじめ明治維新後の加賀の経済をも支え、地域に多くの富をもたらし、伝統文化の継承にも寄与しました。
- 尾小屋鉱山
- 江戸初期に発見された鉱山で、銅の他に金・鉛・亜鉛を産出。銅は明治から大正に生産量が増大し、日本有数の産出量を誇りました。昭和46年の閉山まで地域の基幹産業として支え、そのための鉄道も敷かれていました。坑道跡を整備したマインロードとそれに隣接して建設された尾小屋鉱山資料館では、鉱山の歴史や鉱山道具、そして様々な鉱物が展示されています。
- 石川県立尾小屋鉱山資料館
- 金平金山
- 江戸後期に加賀藩財政を支えた金山。現地は立ち入りできませんが、博物館が所蔵する当時の文献や金山絵巻は非常に貴重で市指定の文化財になっています。
- 遊泉寺銅山
- 尾小屋鉱山と並ぶ大規模銅山。江戸後期に発見され、明治・大正と大規模に採掘されました。現地には巨大煙突と真吹炉が2基遺存しています。遊泉寺銅山ものがたりパークとして整備され、園内を散策することができます。
受け継がれるモノづくりのDNA
数多くの石切り場から切り出された石材は、市内の建造物をはじめ、国会議事堂や甲子園会館など、全国の数々の有名建築物にも使用されています。
市内中心部の趣のある町家には多くの石蔵が残り、美術館や飲食店などにも利用されています。
滝ヶ原地区には明治期以降に作られたアーチ型石橋が6橋残され、一つの地域に複数の石橋が存在する事例は全国的に見ても貴重な存在です。
かつての石切り場跡は、石工道具で丹念に切り出した際の文様などが残り、幻想的な空間を作り出しています。
このように2300年にわたり、小松の人々は人・モノ・技術が交流する豊かな石の文化を築き上げ、まちの景観、暮らしを作り出しています。
- 東酒造
- 観音下石を使った昭和20年代に築造された日本酒醸造所の石蔵。5棟の石蔵が連なり建って風景を見ることができます。
- 神泉 東酒造株式会社
- 滝ヶ原アーチ石橋群
- 滝ヶ原町に現存する5橋のアーチ型石橋。地元滝ケ原石を使用した石橋で、隣接する菩提町にも1橋が残っています。明治後期から昭和初期に建造されました。
- 滝ヶ原石切り場
- 文化11年より始まり、現在も採掘が行われる緑色凝灰岩の石切り場。現在稼働する石切り場と旧の石切り場があり、前者では大型の電動鋸で掘削された300m以上真っ直ぐに延びる採掘坑が、後者では藩政期から明治期に人力で掘削した採掘坑が見ることができます。
- 観音下石切り場
- 大正初期から始まり、近年まで掘削が行われた浮石質凝灰岩の石切り場。特徴的な黄色を呈し、湿気に強くカビが生えにくい特徴が評価され、国会議事堂や甲子園ホテルなど、全国の近代建築に利用されています。市内各所でも多く見られる石材で、石蔵をはじめとして石塀や門、庭の石造彫刻物などに使用されています。
こまつ「石の文化」の系譜MAP
- 八日市地方遺跡
- 八日市地方遺跡出土品
- 那谷寺
- 十九堂山遺跡石塔群
- 仏御前墓
- 滝ヶ原石造多層塔
- 滝ヶ原下村八幡神社遺跡
- 観音下白山神社境内遺跡
- 小松城本丸櫓台石垣
- 小松城本丸西側石垣
- 鵜川石切り場跡
- 遊泉寺石切り場跡
- 九谷焼製土場(九谷セラミック・ラボラトリーほか)
- 連房式登窯(小松市立登窯展示館)
- 錦窯(小松市立錦窯展示館)
- 錦窯(松雲堂)
- 尾小屋鉱山
- 金平金山
- 遊泉寺銅山
- 東酒造
- 滝ヶ原アーチ石橋群
- 滝ヶ原石切り場
- 観音下石切り場
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